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第八編 決戦態勢・終戦・戦後復興

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第九章 学生と教職員の戦後の動向

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一 学生生活の様態

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 敗戦とともに学苑に帰ってきた学生の心境が一様でなかったことは、三一五頁で触れた通りである。しかし、そうした想念の違いはともかく、等しく学生を待ち構えていたのは、物資の絶対的不足と激しいインフレとによる生活難であった。中でも食糧難は、都会で生活する学生には想像を絶する深刻な悩みであった。勿論この苦しみは国民すべてのもので、学生固有のものではない。全体から見れば、学生にはまだ余裕があったと言えるかもしれない。しかし、学業を本分とする学生が、何よりも生活の維持、それも食べることを考えなければならなかったことは、恐らく学生生活の危機と言ってよいものであった。例えば家城啓一郎(昭二五政、後NHK解説委員)は、

戦争に敗れ、東京の焼跡に立った復員学生はナニをなすべきか途方にくれていた。一望さえぎるものもない焦土からは、夕焼けの富士が美しく、焼残った電柱や家屋の残がいは黒々と醜かった。まず住むところ、それは伝手をもとめて戦禍にあわなかった家々を訪ねるところからはじまる。喰わねばならない。

(『ひろば・政治経済学部報』昭和四十九年発行第七号 三頁)

と記し、武藤山治(昭二六政、後衆議院議員)は、やや後のことになるが次のように語っている。

高等学院から学部に入ったのが昭和二三年だった。衣類や食糧も欠乏し、主食はトウモロコシやジャガイモ、雑炊で腹ペコ、誰れの顔も青白く栄養失調気味だった。高田馬場駅のホームに上る階段がきつく感じられ手すりに寄りかかりながらホームに出た欠食時代が今さらのように思い出される。 (同前)

下宿代はいらないから米を持って来いという下宿屋もあったと伝えられているが、ここにもその当時の状況がよく示されていると言えよう。

第三十四表 学生の生活費(昭和22年6月末)

 では、その頃の学生の生活費は一ヵ月どのくらいで、それはおもに何に使われていたか。昭和二十二年六月末の学生共済会の調査結果を纏めた上表を手掛かりに探ってみよう。ただし、調査方法も調査対象者数も不明な上に、自宅通学者と下宿通学者との区別が無視されているのみならず、収入を親のみ、またはアルバイトのみより得ていた学生がどの程度存在していたかも知り得られない憾みがある。調査当日にたまたま登校してきた学生を対象に選んだのであろうが、求人最高期七月直前の六月末がこうした調査に最適か否かも疑問であるし、学年試験最中にでも調査しない限り、アルバイトを授業よりも優先させなければ生活が困難な学生に関する数字は把握できなかろう。自宅通学者の可処分収入が少額でも不思議ではなく、個々の学生が現実にどれだけの収入を必要としたかは、この表では分らない。因に、高等文官試験合格者の二十一年四月の公務員新規採用者の基本給が五百四十円、二十三年一月のそれが二千三百円(週刊朝日編『続・値段の明治・大正・昭和風俗史』一五九頁)、勤続十七年の銀行員の二十二年のそれが六百七円、翌年には千七百十四円(『続続・値段の明治・大正・昭和風俗史』六八頁)であったから、この表だけで判断する限り、早稲田の学生は比較的裕福との姿が浮かび上がってくる。

 費目別支出を見よう。この頃、全学生に占める自宅通学者の割合は半分であったが、当然彼らは住居費を負担しないし、下宿生活者に比べれば食費も僅かで済む筈である。食費で七百円未満、住居費で二百円未満が圧倒的に多いのは、この支出金額層が自宅通学者を含むためである。尤も、住む場所があれば幸いで、復学・入学はしたものの、戦後の東京の住宅難により落ち着く先のない学生が多数あり、この方が深刻な問題だったのである。前掲の家城啓一郎の一文は、そうした状況にあった学生の動向を伝えるものである。第三十四表から学生生活の実相を窺えるのは、自宅通学者と下宿通学者との格差が比較的小さな交際娯楽費のみである。当時の学生の娯楽と言えば映画・演劇が代表的なもので、ダンスが次第に流行し始めていた。しかし、こうした娯楽に支出できる余裕のあった学生はごく少数で、殆どの学生は食べるだけで精一杯だったのである。この調査が行われた二十二年の三月時点の封切り映画館入場料は十円、九月には二十円、翌年八月には四十円で、二十二年四月のビール大びん一本は約六十円、十二月には百円であった(『値段の明治・大正・昭和風俗史』一六五頁、一八〇頁)。従って表は、ビール一本飲むことのできない学生が半分以上いたのを示している。比較的安かった映画を唯一の娯楽としたことが、これから理解できよう。次に、表には欠けている書籍費はどうであろうか。やはり学生共済会の二十二年調査によると三百円―五百円となっている。この年三省堂の『広辞林』が五百円していることを考えれば、書籍費は実に微々たるものであったと言うべきであるが、そうした費用を捻出できたのも、先の娯楽費同様きわめて限られた層であったことは記すまでもない。

 学生の生活危機は右の如くであるが、生活維持のために、学生はどのようなアルバイトをしていたろうか。そもそもアルバイトと言えば、これまでの考え方では余技であり、それが収入の一部になると素朴に考えられていたが、その中心は何と言っても家庭教師であった。しかし、この時期になると、こうした考え方も実態も大きく変容して、大方の学生にとりアルバイトは、余技でないことは勿論、学費を稼ぐためのものでもなく、生活に直結した必要不可欠なものとなっていた。東京帝国大学文学部学生委員会の二十二年六月の調査によると、アルバイトに従事する時間が週四十時間以上の者が一七パーセント、二十時間以上が四四パーセントにもなっていて、極論すれば、学生はアルバイトの余暇に勉強する状態だったのである(尾崎盛光『日本就職史』二六〇頁)。それでは学生はどのようなアルバイトをしていたか。本学苑の場合、学生共済会が二十一年より翌二十二年までの一年間に斡旋したアルバイトの職種は、軽労働約千三百名、雑務約七百名、事務約三百名、重労働約二百名であった。家庭教師は学生に相応しい職であり、先述のように、それまでの学生アルバイトの中心であったが、この時期にはその口は殆どなく、比較的高級なアルバイトは経理事務、進駐軍関係の仕事であった。しかし、それとても全体から見ると多くなく、求人の中心は土木工事助手や倉庫整理など肉体労働が圧倒的多数を占めていた。学生は土木事業は勿論、ピーナッツや宝くじ売り、靴磨きなど、街頭に出ていろいろな肉体労働に従事したのである。尤も、少しでも多くの収入を得るため進んでこのような仕事に携った者が、左の新聞記事に見られる如く決して少くなかったのも事実である。

西銀座の財団法人学徒厚生協会を訪ねてみる。……当協会で扱つた就職学生の数は女子五百名を交えた約二千名で、職種は事務、労働、外交、販売など多種多様で収入もいろいろ、学生たちは新円獲得の悲壮な決意で収入の少い事務系をさけて、荒かせぎのできる歩合給の販売方面を望む者が多かつた。中でもさすがに季節のものがトップで、アイス・スマック売りなど一日の手当が三五〇円というのもあつた。事務系統は学生に適する仕事なのに平均日給が五十円から八十円止りなのでどうしても収入の多い販売の方へ行く者が多かつた。 (『三田新聞』昭和二十二年九月十日号)

因にこの時期の明治大学の調査では、職種を進駐軍関係、一般会社、ダンス・ホール、外交員、販売員、ブローカー、その他とすると、その他が最も多く、次いで一般会社、ブローカー、進駐軍関係、販売員の順と報告された(『現代学生の実態』一〇四頁)。多くの学生にとり、生活維持が先決で、職種を選択できる状況ではなかったのである。

 このような学生の生活状況に対して、学苑はどのような措置を講じたろうか。昭和二十年―二十三年の文部省への「事業報告」の中から、学生への厚生施設に触れた部分を抜粋すると次の如くである。

昭和二十年

一、十月二十三日学生ホール開館、学生一日四千名乃至五千名ニ対シ昼食ヲ給与シ得ル様設備セリ。

〔中略〕

五、十二月二十六日東伏見ニ学生寮ヲ新設セリ、約二百八十名ノ収容力ヲ有ス。

昭和二十一年

一、本年度ハ昨年度ニ比シ物価ガ更ニ騰貴シタ為学生生活費ハ一層嵩ミタルニ鑑ミコレガ対策トシテ、大学ハ学生ノ宿舎ノ獲得整備、世話、食堂ノ拡充、学用品ノ配給並ニ内職ノ生活等学生ノ厚生福利ニ関シテ努力シタ結果、満足スベキ結果ハ得ラレナイトハ云へ、学生生活ニ及ボシタ影響ハ少クナカツタト考ヘル、左ニ其ノ主タルモノヲ列挙スル。

㈠ 学生共済会ノ設立認可(五月七日)

物価高ノタメ学生ノ生活費ハ一ケ月七百円カラ一千円ヲ要スル為、コノ負担軽減ノ目的ヲ以テ学生共済会ガ設立セラレタノデ之ヲ承認シ、大学ハ運転資金トシテ金三十万円ヲ融通スルコトニシタ。

㈡ 学生食堂ヲ拡充(六月六日)

昨年末カラ学生ニ昼食用ニ代用パンヲ日ニ四千人分乃至五千人分ノ給食ヲ行ツテ居タガ、食糧事情愈々困難ナル状勢ニ鑑ミ更ニ外食券ニヨル食堂及他ニ食品ノ売店ヲ承認シタ。

㈢ 学用品ノ配給

学用品主トシテ学用ノートヲ文部省ヨリノ配給並ニ本大学直接交渉ニヨル配給ハ約十万冊ニ及ンダ。

㈣ 衣料品及靴

主トシテ文部省ノ配給分ヲ配給シタ。

昭和二十二年

㈠ 学生共済会

本会は昭和二十一年五月設立以来、総務、会計、育英、勤労、宿舎、書籍、学用品、出版、物品、食堂、夜間の各部を設け、特に勤労及び宿舎に重点をおき活発な活動をなしつつある。

学校当局はこの会の実体並に運用方法につき調査研究する必要を認め、十二月一日学校側四名、学生側四名よりなる学生共済会運用調査委員会を設置して、なお研究を行つている。

㈡ 学生食堂

通常時に於ける本学生食堂の利用者は一日約一、〇〇〇名内外であるが、これについても前記学生共済会運用調査委員会で、今後の対策方針について検討を加えつつある。

昭和二十三年

㈠ 学生共済会

本大学学生共済会は総務、会計、勤労、宿舎、書籍、出版、物品、食堂、事業及び夜間の各部を持ち、広く学生の厚生面に対して活躍している。他に全国学校協同組合連合会、日本学生図書協会、学生食堂連合会、学徒援護会学生相談所に理事若くは委員を派遣してこれらの組織と密接な連繫の下に目的達成を期している。大学としては共済会運営協議会を設定してこの会の円満な発達を期している。

㈡ 学生食堂

学生外食食堂として学生ホール内に設けてあり、学生共済会と連繫をとりつつ経営している。責任職員として一名の嘱託を置き、他に数名の従業員を使用している。利用者は一日平均約一、〇〇〇名である。

なお、二十一年現在の本学苑の厚生援護施設は、左の如くである。

第三十五表 学生・生徒の厚生援護施設(昭和二十一年)

 学苑も可能な限りの努力をしたことがこれにより窺えるが、先の学生生活の調査の記述でたびたび触れ、また「事業報告」にも書き留められている学生共済会について、ここで少し記しておくことにしよう。

 学生共済会は現在の生活協同組合の前身で、右表でも示されているように、「学生々活に必要な物資並に諸施設の配給又は設置経営」を目的に設立されたものである。大学の正式認可は前掲資料のように二十一年五月七日であるが、前年十二月十日の全学学生大会の決議に従い、この年一月に設立準備委員会が発足、五月一日より事業を開始した。その内容は、昭和二十一年五月一日付『早稲田大学新聞』の次の記事によって知ることができる。

約二箇月に亘つた休暇は明け、新入生を迎へたが、学生々活の危機は日に日に迫り、破局の寸前にあるとき、三月来活発なる運動を展開して学生自らの手で解決せんと、強力なる自主を確立すべく献身しきたつた学生自治委員会では学校当局から三十万円(現在高四万円)の財政的援助を得て、愈々その巨歩を進め、この程共済会の組織を通して、本格的事業に入ることになつたが、共済部のもとに運営することは自治委員会機構を厖大化する虞れあるので、別途に共済会を以て行ふこととなつた。去る二月学生大会決議以来休暇を犠牲にし、一万の学友に応へた辛苦は真に絶讃にあたひするものであり、老侯以来の伝統のたまものとはいへ、学生諸兄は多大の感謝を以て迎へるべきであらう。……

◇消費組合

総務部(企画・庶務・会計・渉外の諸部門に分れる)

食堂部=現在大隈会館内学生ホールに建築中にして学生課清水〔武三〕氏が尽力。

喫茶部=谷盛房(大政)、中野哲郎(理工)君により近々文学部地階に開設。

食品部=食料品を主として学生に安価に提供の見込、輸送用トラック払下げ鋭意交渉中。

学用品部(文房具・書籍部)

書籍部=政経学部岡田律夫、牟田口実君を管理委員として、既に戸塚署より古物商鑑札、組合との諒解を得て、各方面の書店と連絡、殊に岩波、日評等から比較的多量に入書される予定で、書籍難宥和に期待されてゐる。場所は文学部地階で五月一日から毎日九時―四時まで開店。

文房具=商学部関沢良一君を中心にノート、便箋、原稿用紙等生産工場と直結入荷される。

◇事業部は現在まだ活動を開始してゐないが、学生の健全娯楽、映画、演劇の挙行をする。

◇勤労部はこの休暇中勤労学徒援護会と連絡をとり約百名の内職斡旋をしたが、今後委員の拡充をはかつて積極的に運動する。

 さて、生活を守るための努力が学苑当局や学生自身によって種々試みられたことは叙上の如くである。しかし、学生にとって深刻な問題は、単に生活難のみにとどまらなかった。例えば就職難である。昭和二十年九月に卒業した学生については資料が欠如しているが、翌年九月卒業生の場合を見ると、次のように報じられている。

来る二十九日卒業式とともに、千五百名の卒業生が社会に飛び出して行くが、例年ならば既に大部分のものの就職は決定してゐるところだが、本年の就職は文学部の英文科、理工学部の建築、土木、工経科を除いては不振を極めてゐる。文科系学部卒業者八百五十名のうち三百十八名が学生課に就職を依頼してゐるが、その他約五百名は各自縁故関係により就職を探すものと見られる。これに対し学生課では二百九通の推薦状を下付してゐるが、求人申込は僅か八十三名にすぎない。しかも各会社とも成績優秀者、身体強健、志操堅固、通勤可能等の諸条件をつけ、就職は更に困難である。……学生課を通じての各部の九日現在の就職状況を見ると、

▽政治経済学部 二百六十四名に対し百七名が就職を希望してゐる。これに対し七十三通の推薦状を下付したが現在まで十名が決定。

▽法学部 百六十七名のうち就職希望者は六十五名、求人数は各学部中一番悪く僅か二名決定したのみ。〔中略〕

▽商学部 卒業生三百五十名に対し百二十三名の就職希望者、現在まで八十五通の推薦状を下付してゐるが、五名しか決定してゐない。

▽文学部 卒業生九十名に対し二十三名が学生課に依頼してゐる。推薦状は十三通下付し、決定率は文科系では最高で五〇パーセント。

▽理工学部 卒業生は約五百名、文科系に較べ率はよい。特に建築科、土木科は時勢の波にのつて就職希望者八十名に対し求人申込数はそれを凌駕するくらい……。採鉱冶金科では従来就職地が外地にあつた関係で、相当の打撃を受けてゐるが、各科とも縁故による就職が相当あり一般紙の報ずる程ひどくはない。 (同紙昭和二十一年九月二十日号)

理工学部はともかく、文科系の就職の厳しさが察せられよう。昭和二十二年春には若干好転の兆しが見えているが、基本的には変っていない。学生を取り巻く状況は、このようにきわめて厳しかったのである。

二 学生自治会の結成

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 上述の如く、学苑復帰の学生は先ず物資獲得に多大の精力を費すことを余儀なくされたにも拘わらず、学問への情熱を湧き立たせっつ、自らの手で衣食住など学生生活の最低条件確保に必須の諸問題解決のため、また学苑の民主化達成のため、立ち上がったのであった。学生共済会の設置もその一つであったが、前掲資料にも見える学生自治委員会(のち学生自治会と改称。ただし、二十一年の「事業報告」には学生自治会とある)について述べよう。

 戦後、職場では組合が作られ、学生が自治会を結成したのは周知のところであるが、これらの組合や自治会は、俗に「ポツダム組合」「ポツダム自治会」と呼ばれている。すなわち上からの民主的諸改革の産物との認識である。確かに、二十年九月十二日文部省が自治会の組織化を指示・奨励したことなどは、それを示すものであろう。しかし、翌二十一年九月貴族院での文相田中耕太郎の「教職員、学徒の政治運動への介入を禁止する、学徒の学校行政容かいは不当である」との発言、あるいは二十二月二月CIE(GHQ民間情報教育局)の「学生の自治は総長の公選や学校行政にまで及ぶべきではない」(日本学生運動研究会編『学生運動の研究』七頁)とする覚書で明らかなように、上からの改革には自ずから限界があった。従って組合や自治会がその後一層発展したことを考えれば、その結成は決して上から与えられたものではなかったと理解すべきであろう。例えば、戦後一時期学生は哲学に対する関心を強く示し、西田幾多郎などをよく読んだが、やがて社会学や経済学へ心を向けるようになり、各大学での社会科学研究会の復活とあいまってマルクスの学習に傾いていった。自治会結成は一つにはこのような学問への関心と相応するのであり、また他方では学校民主化への努力と繫がったのである。本学苑の場合、二十年の学友会の復活や学生団体規程の制定などがそれであったと言えよう。「事業報告」には次のように記されている。

十二月一日学友会ヲ設立、学生ノ自治的活動並ニ品性ノ陶冶ニ裨補シ、併セテ学校教育ノ補充的機能ヲ発揮シ校風ノ振作ヲ図ラシムコトトセリ。

十二月七日新タニ学生団体規程ヲ制定、研究修養又ハ演練ヲ目的トスル学生ノ諸団体ニシテ学友会ニ所属セザルモノニ対シ之ヲ適用スルコトトセリ。

 唐沢富太郎の『学生の歴史』によれば、戦後の学生運動は、二十年十月高等学校の軍国主義的校長排斥運動を以て嚆矢とされ、十月の静岡高校、水戸高校、十一月の佐賀高校と頻発した。やがて学生はこうした中から学内の民主化や学生自治、生活維持を求めて自治会結成へと動き始めるのであるが、本学苑においても同様な経緯を辿っている。すなわち、先ず二十年十一月二十六日、第二高等学院生が学生大会を開き、陸士海兵からの優先転学に反対の決議を行っている。これが戦後における本学苑の学生運動の第一声で、以後、戦犯教員の追及、戦前学苑を追われた教員の復帰要求、食生活改善のための協同組合設置要求と運動の火は燃え上がっていき、翌年一月二十六日学生大会を開くに至るのである。なお、第二高等学院で反対決議をした軍関係学校の入学者について、やや後のことになるが、昭和二十一年十一月二日付発学五百十八号通牒「軍関係学校在学者及卒業生者等の入学状況調査」に対する翌年一月二十七日の回答書によると、政治経済学部第一学年在籍者三百七十五名中軍関係者は十二名(三・二パーセント)、法学部三百一名中十六名(五・三パーセント)、文学部百七十四名中十九名(一〇・九パーセント)、商学部二百七十五名中十名(三・六パーセント)、理工学部四百四十八名中百一名(二二・五パーセント)であった。

 さて、二十一年一月二十六日の学生大会は、同月十五日結成された連合学生委員会(各学部、専門部、学院その他付属学校の学生委員より成る)、十八日結成の文化会幹事会、二十二日結成の体育会幹事会の三者を一体化した学生自治委員会の手によって開かれたもので、大会会場となった大隈講堂には約三千名の学生が続々とつめかけ、学生自治会の承認、私学の復興、戦災校舎の復旧を決議したのであった。なお学生自治会が学生大会で承認を得たのは一月二十六日であるが、「本大学ノ教旨デアル自治ノ精神ニ基キ学生ノ自主的協同生活ノ充実ヲ計リ全学生ノ総意ヲ実現スルコトヲ目的トシテ学生自治会ノ設立届出(五月二十七日)ガアツタノデ之ヲ承認シタ(五月三十一日)」と「事業報告」には記載されているので、自治会の正式結成は五月三十一日と見るべきであろう。同委員会には執行機関として連合学生委員会、文化会幹事会、体育会幹事会三者選出の委員より成る学生代表委員会が設置され、委員長、副委員長、執行委員若干名が置かれることになった(『早稲田大学新聞』昭和二十一年二月二十五日号)が、この自治委員会の結成は次の点で大きな意味を有するものであった。すなわち第一は、戦前の学生運動がなし得なかった公然たる学生の自治組織を作ったこと、第二は、全国の大学に先駆けて結成した最初の組織であったこと、第三は、従って本自治会が各大学の学生自治組織結成の触媒となったことである。

 ところで、こうして結成を見た学生自治会が先ず最初に対応を迫られたのは、新校規(本編第八章第一節参照)と生活擁護問題であった。すなわち、三月二十一日自治委員会は新校規に対する学生の態度ならびに意見を決定するため臨時中央委員会を開き、大体においてその趣旨に賛成する姿勢を示すとともに、現下の学生生活の危機に関しても種々討議を重ねた結果、次のような建議書を作成して翌日学校当局に提出したのである。

建議事項

(一) 授業料値上は実質的学生生活の破壊を伴ふ恐れがあり、一応真剣に反省せられたきこと。

(二) 学校経営の真に困難なる所以を、具体的な予算につき説明ありたきこと。

(三) 現下の食糧事情、新円生活の困難から、何等かの方法で働きつつ学び得る体制を考慮実行されたきこと。

(同紙昭和二十一年五月一日号)

 第一項で授業料値上げ問題が取り上げられたのは、この年四月一日より、新一年生に対し各学部(理工学部を除く)六百八十円、理工学部七百六十円、高等学院六百円、専門部各科(工科を除く)六百円、同工科六百八十円、専門学校三百六十円、高等師範部六百円、更に「在学生ニ対シテハ現在学費ノ八割増額ヲ標準トシ」て、各学部(理工学部を除く)六百円、理工学部六百八十円、高等学院五百四十円、専門部各科(工科を除く)五百四十円、同工科六百円、専門学校三百三十円、高等師範部五百四十円と値上げされたことに関するものである。値上げの理由は次のように説明されている。

国内経済状勢ノ悪化日ニ其度ヲ加へ物価ノ昻騰亦甚ダシク、為ニ本大学ニ於テモ必然的ニ経費ノ膨張ヲ来タシ、物件費ノ異常ナル増大ハ固ヨリ時勢ニ応ズベキ人件費ノ支出モ亦著シク増大シ、剰へ戦災復興費ニ多大ナル応急支出ヲ要スル等ノ理由ニヨリ、本学年度ニ於テ既ニ巨額ノ予算外支出ヲ為サザルヲ得ザルニ至レリ。従テ来学年度以後ハ従来ノ学費額徴収ヲ以テシテハ如何ニ節約ヲ試ムルモ到底学園ヲ維持シ所定ノ教育ヲ実施スルヲ得ズ。況ヤ戦後教育ノ重要性ニ鑑ミ戦災校舎ノ復旧ヲ図ルト共ニ、一層教育内容充実ノ責任ヲ果タスガ如キハ殆ド之ヲ期スベカラザル実状ニ在リ。依ツテコノ窮境ヲ打開スルノ一方法トシテ已ムナク昭和二十一年度ヨリ学費ノ増徴ヲナサントスルモノナリ。

 なお、法文系学部学生、高等学院文科生徒の定員が、二十一年よりそれまでの二倍の、政治経済学部二百四十名、法学部二百名、文学部二百名、商学部二百四十名、第一高等学院文科二百四十名、第二高等学院六百四十名となり、理工学部、第一高等学院理科においてもそれぞれ五百二十名と増員された。増員理由は次の通りである。

本大学法文系各学部学生定員並附属高等学院文科生徒定員ハ昭和十九年四月教育ニ関スル戦時非常措置方策ニ基ク整備ニ依リ、三分ノ一ニ削減セラレ僅カニ四百四十名ヲ以テ現在ニ至レリ。然ルニ事態ハ今ヤ一変シ玆ニ新日本ヲ建設センガ為社会各層ノ指導者タルベキ多数ノ人材育成ヲ焦眉ノ急トスルニ際シ、現在定員ヲ以テシテハ最高学府トシテ到底澎湃タル文化活動ニ寄与スルヲ得ズ。況ヤ我ガ国未曾有ノ変革ニ遭遇シ真ニ国家存立上緊要ナル施策ヲ講ズベキトキニモ拘ラズ、此ノ絶好ノ機会ヲ逸シ悔ヲ百年ニ残スガ如キハ教育ノ任ニ当ル者ノ誠ニ忍ビザルトコロナリ。本大学ニ於テハ以上ノ見地ヨリ法文系各学部学生定員並附属高等学院文科生徒定員ヲ此際二倍ニ増員シ、一面ニ於テハ本大学理工学部並附属高等学院理科定員トノ均衡ヲ保チツツ文化活動ニ必要ナル人材ヲ養成シ、以テ世界文化ノ進展ニ貢献シ、他面ニ於テハ向学ノ念燃スルガ如キ青年学徒ヲシテ一人タリトモ多ク学ブニソノ処ヲ得シメ、併セテ国内社会問題ノ解決ニ資セントスルモノナリ。

 ところで先の建議書提出に引き続き、学生の自主権確立の運動はいよいよ昻揚し、五月二十九日には第三回全学学生大会が大隈銅像前で開催された。この時集まった学生は約千五百名、会場は「日映のキャメラが回転する、各社の記者が往来する、学生の拍手喚呼が乱れ飛ぶ」状況で、「初夏の学園に吹いた久しぶりの嵐の一幕」であったと六月十五日付『早稲田大学新聞』は伝えている。この大会で学生は、学生自治委員会の承認と教授学生協議会の設立を求める一方、次のような決議文を作成して、総長代理林癸未夫に手渡したのであった。

決議

我等は学生の積極的自主性にまたずして学園の民主化の充実は望み得べくもなきを固く信じ速かに我々の自主組織の確立を要望す。而して愈々教場に生気を注入するため学生の純粋なる意志を加へ、新総長を迎へ、学閥派閥に依らずして教授陣を強化し、而も学制に抜本的改革を断行すると共に窮迫せる学生生活の大学費の国庫補助並に勤労と学問の直結を計り併せて、授業料値上に係る学園経営内容の公開によりその明朗化を期す。我等は最後迄真摯に学生自治委員会を中心として此等に対する徹底的解決を推進せんとするものなり。

昭和二十一年五月二十九日 (同紙同日号)

学生の要求に対して当局は三十一日、

一、自治委員会は原則として之を認む。

二、教授学生協議委員会の承認に就いては各部科教授の総意を纏めた上で回答する。

三、国庫補助は学校当局もその必要を認め文部省及マ司令部と交渉中である。

四、授業料値上げに就いては計数的根拠を近く公表する。 (同前)

との回答を示し、次いで教授中谷博が学校当局を代表して次の発言をしたのであった。

吾学園は未完成である。その為学生諸君が早大を完成せんとする意欲はよい。併し、完成せんとする自治委員会それ自体、全早稲田からみると未完成の一つにすぎない。早大七十年の伝統は総てが良いと云ふのではない、寧ろ伝統そのものを検討して過去を回顧し、現在を直視し、将来を見透して、伝統をよりよく変へることこそ真に早大を愛することであつて、徒に伝統を固守することは直に母校を愛することではない、冷静な反省こそ発展の因であつて一時の激情に駆られたのでは方向を誤ることとなる。 (同前)

 学生大会が学生の総意を反映するか否かという点、あるいは戦犯教授追放問題などに関し活発な質疑がこの日行われたが、注目すべきは、民主主義科学者協会から激励文が送られていること、および慶応義塾大学の代表委員から次のメッセージが寄せられたことであろう。

今、日本を挙げて民主主義へ邁進しつつある。就中大学の民主化はこの革命の先駆たらねばならない。早稲田は諸君の手により民主化されんとしつつある。大隈侯もこれを喜んでゐるに違ひない。大学民主化の口火を切つたのは早稲田の諸君だ。諸君は正しい、学生の本分は教へられるままに屈してゐることではない。諸君はこの誤てる学生の本分と云ふことに捕はれずにこの闘争を成就して欲しい。早稲田が失敗すれば全国の学生運動も停滞を来たす。早稲田が成功すれば全国の学生も起ち上るであらう。 (同前)

 ともかくも先述したように、学生自治会は五月三十一日学苑当局より認知され、公然と活動できることとなった。

しかし、学生と当局との間に学生自治権をめぐり意見、認識の違いがあり、学生自治会規程は容易に決められなかった。そこで設けられたのが学生自治会規程起草委員会であった。委員には中谷博(委員長)、中島正信(副委員長)ら十四名が委嘱された。またこれには学生側からも各学部、各科、各校および文化団体、体育会の代表者が加わった。そして十数次の会合、更には自治会規程小委員会を設けての細部の検討などを経て、二十二年二月漸く成案を得たのであった。同案は三月上旬部科長会議で字句の修正が施されたあと理事会に回付され、四月十七日正式に承認された。ここに全く新しい自治会規程が誕生、同時に新生自治会の成立を見ることになったのである。全文七章六十三条より成るこの「早稲田大学学生自治会規程」は左の如きものであった。

早稲田大学学生自治会規程

第一章 総則

第一条 本会は早稲田大学学生自治会と称する。

第二条 本会は本大学の教旨たる自治の精神に基き、学生の自主的協同生活の充実を図り、全学生の総意を実現することを目的とする。

第三条 本会は本大学生全員をもつてこれを組織する。

第四条 本会に左に掲げる委員(議員を含む)及び委員会(議会を含む)を置く。

自治委員及び自治委員会

中央委員及び中央委員会

中央執行委員及び中央執行委員会

代議員及び自治議会

第五条 本会に属する委員は総て選挙による。その任期は当該学年限りとする。

第六条 本会に属する委員会は別段の定めある場合の外、所属委員定数三分の一以上の出席によつて成立する。

議事は委員の責任ある討議を経たる後、出席委員の過半数をもつてこれを決する。

可否同数のときは議長がこれを決する。

会議は公開を原則とし、主要の決議事項はこれを公示する。

第七条 本会は教職員との連絡を図るため、教職員学生協議会を持つ。

教職員学生協議会の組織は別にこれを定める。

第八条 本会は本会に属する委員会の外、必要あるときは、学生大会を開くことができる。

第九条 本会は各学部又は附属学校の特殊事情による所属学生の自治を尊重する。

第十条 本大学学生の文化団体、体育会及び共済会は本会から独立の団体とする。但し全学生の自治に関する共通事項については、本会に協力しなければならない。

第十一条 本会の事務所は本大学構内に置く。

第二章 自治委員及び自治委員会

第十二条 自治委員は各学部又は附属学校に所属する。

自治委員は学生の自治に関して、その所属する学級を代表し、且つ教務に関して、当該学部又は附属学校と常時その連絡に任ずる。

第十三条 自治委員は各学級において所属学生中から互選し、学部長又は附属学校長がこれを嘱任する。

第十四条 自治委員の定数は各学級の学生二十五名に一名の割合を原則とする。

第十五条 自治委員の選挙は毎学年度始業日から二十日以内に行う。

選挙の日時、場所その他必要の事項は、選挙日の十日前に学部長又は附属学校長がこれを公示する。

第十六条 自治委員の選挙は、前任の自治委員がこれを管理する。但し、前任の自治委員がその任務を行い得ないときは、学部長又は附属学校長が管理者を指定する。

第十七条 自治委員の選挙には、当該学級に所属する学生の過半数が出席しなければならない。

選挙は単記無記名投票によつて行う。但し、当該学級に所属する学生の協議によつて連記投票とすることができる。

〔中略〕

第三章 中央委員及び中央委員会

第三十条 中央委員は各学部又は附属学校に所属する自治委員を代表する。

第三十一条 左に掲げる者をもつて中央委員とする。

一、各学部又は附属学校の自治委員会の議長及び副議長。

二、各学部又は附属学校の自治委員会において選出された者。その定数は所属自治委員定数の十分の一とする。

第三十二条 中央委員は中央委員会を組織する。

中央委員会は自治議会の閉会中において、全学生の自治に関する共通事項を議決する。

第三十三条 中央委員会に議長及び副議長各一名を置く。

議長及び副議長は中央執行委員長及び中央執行副委員長がこれに任ずる。

〔中略〕

第四章 中央執行委員及び中央執行委員会

第三十七条 中央執行委員は会務を掌理する。

第三十八条 中央執行委員の定数は委員長及び副委員長の外、各学部又は附属学校につき各二名とする。

中央執行委員は中央執行委員会においてこれを選出する。

第三十九条 中央執行委員は中央執行委員会を組織する。

中央執行委員会は本会の中枢決議機関として会務の掌理に関する事項を議決する。

第四十条 中央執行委員会に委員長及び副委員長各一名を置く。

委員長及び副委員長は中央委員会においてこれを選出する。

第四十一条 中央執行委員長は会務を統轄し本会を代表する。

〔中略〕

第五章 自治議会及び代議員

第四十五条 自治議会は本会の最高決議機関として、全学生の自治に関する共通事項を議決し、全学生の総意を宣明する。

第四十六条 自治議会は代議員五十名以上の提議によつて、中央委員又は中央執行委員に対し、不信任を決議することができる。

第四十七条 自治議会は代議員及び自治委員をもつて構成する。

但し、中央執行委員の地位にある者は決議に加わることができない。

第四十八条 自治議会に議長及び副議長を置く。

議長及び副議長は開会の度毎に中央執行委員の地位にある者を除き議員中から互選する。

第四十九条 自治議会は中央執行委員長がこれを招集する。

自治議会は通常議会及び臨時議会とする。

通常議会は毎学年度前学期及び後学期においてこれを招集する。

臨時議会は中央執行委員会において必要と認めるとき、又は議員定数十分の一以上の要求あるときにこれを招集する。

〔中略〕

第六章 会計

第五十三条 本会の経常費は会員の納付する会費及び本大学からの補助金をもつてこれにあてる。

第五十四条 会員は各学年度始において会費年額十円を学費と共に本大学会計課に納付する。なほ第一学年生は入会金十円を納付する。

工業学校生徒の会費及び入会金は半額とする。

〔中略〕

第七章 附則

第六十条 本規程の解釈について疑義が生じたときは教職員学生協議会において最終的解釈をする。

第六十一条 本規程を改正する必要あるときは教職員学生協議会において起案し、部科長会の議を経て、本大学理事会がこれを決定する。

第六十二条 本規程は昭和二十二年四月十日からこれを施行する。

〔以下略〕

 すなわち「早稲田大学学生自治会規程」の最も重要な点を列記すれば、(一)学生は入学と同時に自治会の会員となること、(二)会員となった学生は新学期開始から二十日以内に二十五名に一名の割合で自治委員および代議員を選出すること、(三)自治委員はその中から十人に一人の割合で中央委員を互選すること、(四)中央委員は新たに中央委員会を組織すること、この場合各部科校の自治委員会の議長および副議長は中央委員となること、(五)中央委員会は各学部科校ごとに中央執行委員を選出し、中央執行委員は中央執行委員会を構成すること、同時に中央委員会は互選によって中央執行委員長、副委員長を選出することなどが挙げられよう。またこのほか注目すべきこととしては自治議会の設置がある。これは(一)で触れた自治委員、代議員合計千六百名によって開かれる学生自治に関する最高の議決機関で、従来の学生大会に代るものであった。本会議は定期的には毎年二回前・後各学期に招集されることになっているが、必要に応じて随時開かれるものとされている。ともかくも本規程は、学校サイドで制定されたものであったにせよ学生自治上画期的なもので、学苑の運営上それが健全に機能するよう大いに望まれ期待されたのである。学生代表も「今度の規程を全部そのまま賛成することは出来ない」と言いながらも、「しかし大たいのところあれでよいと思う」と述べ、昭和二十二年五月十一日付の『早稲田大学新聞』は「主張」欄に、「新しい自治の出発を喜ぶ」と題して次のように記したのであった。

自治委員会の結成以来、永い間の懸案であつた自治会規程が、学生の不断の熱意と学校当局の理解ある態度とによつて、このほど正式に決定をみたことは、学園自治の歴史を一歩大きく前進させたものといえよう。われわれはまず満足の意をもつて新学年を迎えることが出来た。顧みて苦しかつた幾年かの弾圧の時代を想うとき激しい歴史の流れを感じないわけにはいかない。いくら学校当局に理解があろうともなに人も逆ろうことの出来ない歴史の巨歩が、これほど激しく日本を襲わなかつたならば、今度のような画期的な自治会規程が学校当局によつて承認されるようなことは決してなかつたであろう。……今度の新しい自治会規程は真に学生自治の大憲章ともいうべきもので、その内容に至つては今まで如何なる学校にも例をみないような全く画期的なものであるといつても過言ではあるまい。……新しい自治会規程のなかでも最も注目に価するものは、教〔職員〕学生協議会と自治議会の制度であろう。……〔自治議会は〕国家における国会の機能を果すもので、全く新しい試みであるだけに、これがどういう風に運営されるかは、学生自治の根本を左右する大きな問題となるのである。……学生大会が、しばしばわれわれが経験したように、ともすればその場的な群衆心理によつて運営されて来たのに対し、自治議会は少くとも秩序ある冷静な判断に従つて、われわれの問題を解決してゆくことになるであろう。そしてまた同時にこの議会によつて良い意味で学生の政治的訓練、即ちデモクラシーの訓練が行われるであろうことを、われわれは強く期待するものである。……新しい自治の出発にあたつて、学生全員が従来の個人主義的な逃避や無関心を一掃して、積極的に自らの自治を戦い取つてゆくという心構えが絶対に、絶対に必要な前提条件である。

 なお、前掲自治会規程第七条「本会は教職員との連絡を図るため、教職員学生協議会を持つ。教職員学生協議会の組織は別にこれを定める」という一条により、同年六月十二日「早稲田大学教職員学生協議会規程」が次のように定められたが、この規程は翌年四月一部改正され、教務課長が構成員に加わり、双方十七名以内となり、また理事などの出席を求め得るようになった。

早稲田大学教職員学生協議会規程

第一条 教職員学生協議会は教職員と学生との意思の疎通をはかり、学生自治会の運営に協力し、本大学の教旨にしたがつて学生生活の充実向上に資することを目的とする。

第二条 教職員学生協議会はつぎの事項を協議する。

一、大学又は学生自治会に属する各種の委員会(自治議会を含む)から諮問された事項

二、中央執行委員会から大学に提議する事項

三、学生自治会の予算及び決算

四、学生自治会規程改正の起案

五、その他本協議会において必要と認めた事項

教職員学生協議会は学生自治会の運営に関し、大学又は学生自治会に属する各種の委員会(自治議会を含む)に対して建議又は助言をすることができる。

第三条 教職員学生協議会は教職員委員と学生委員とを以て組織する。

教職員委員は各学部又は附属学校教授会もしくはこれに準ずべきものの推薦した者及び学生課長を合せ十六名以内とし総長がこれを嘱任する。

学生委員は十六名以内とし、学生自治会中央執行委員の中から互選する。

第四条 教職員学生協議会の委員の任期は当該学年限りとする。但し再任を妨げない。

第五条 大学の理事その他の職員は教職員学生協議会に出席して意見を述べることができる。

第六条 教職員学生協議会は教職員委員及び学生委員の各半数以上の出席がなければ開くことができない。

第七条 教職員学生協議会は休暇中を除き毎月一回これを招集する。但し緊急の必要あるとき又は中央執行委員会から請求のあつたときは臨時にこれを招集する。

第八条 教職員学生協議会に議長及び副議長各一名をおき、教職員委員の中からこれを互選する。

〔中略〕

附則

第十一条 本規程を改正する必要あるときは教職員学生協議会において起案し部科長会の議を経て本大学理事会がこれを決定する。

第十二条本規程は昭和二十二年六月十二日からこれを施行する。

 教職員学生協議会は学苑当事者と学生側との意思疎通の円滑化を目的とし、協議会で扱う協議事項は、(一)大学または学生自治会に属する各種の委員会(自治議会を含む)から諮問された事項、(二)学生自治中央執行委員会から大学へ提議する事項、(三)学生自治会の予算および決算、(四)学生自治会規程改正の起案などであった。この協議会に参加する教職員側委員には、六月二十一日十六名が嘱任され、また二十四日には、委員間で互選した結果、議長に中谷博、副議長に中島正信がそれぞれ推された。

 二十一年五月結成を認められた学生自治会の規約は、紆余曲折を経てここに成立した。そして同年十二月六日学生大会が約三千五百人の学生を集めて大隈講堂で開かれた。この時の論議の中心は専ら戦災校舎の復興、私学財政危機突破に関する対政府要求に置かれた。その結果対政府要求完全実現のための全学苑学生示威行進が満場一致で決議され、十二月十三日には、約六千人の学生が校旗を先頭にさまざまなプラカードを掲げて文部省まで行進した。歴史的な「模範的学生行進」で、「都の西北」は市街にこだましたという(蜷川譲「荒野に育つもの」創立七十周年記念アルバム刊行委員会『早稲田大学アルバム』八九―九〇頁)。またこのような学生の政治意識の昻揚を背景に、二十二年一月十二日には関東統一学生大会準備会が都内二十校の参加を得て開かれ、同月三十一日すなわち二・一ゼネスト前日には、関東の大学高専四十余校の代表学生三万人により関東連合学生大会が皇居前広場で持たれたのである。

 さて「早稲田大学自治会規程」に基づく初の自治議会は、二十二年六月二十三日午後一時より三日間の予定で大隈講堂で開かれることとなった。しかしこの第一回議会は議事運営の不手際もあって延長となり、閉会したのは一日遅れの二十六日であった。議会の模様の一部を七月一日付『早稲田大学新聞』より左に引用しておく。

▽第一日(二十三日)……午後一時二十分、中執委池原君(法学部)が仮議長として開会を宣言し、議事進行委員会の設置をはかり、満場一致可決、つづいて議長の選出に移り、この日の議長は大谷君(法学部)、森君(政経学部)の交代制ときまる。ここで大谷議長、議長席につき、第一回自治議会の開催を宣言、時に一時四〇分、議長はついで議会の承認をえて、吉村常務理事、中谷教授の登壇を請えば、両教授はそれぞれ立つて「この度の学生自治会の開催は、全国学生自治運動史において画期的な役割を演ずるものであり、それだけに期待と批判の目は強くそそがれている」と述べ……二時三〇分再開していよいよ議事に入り、まず学園刷新の課題として(一)大山郁夫氏帰校促進の問題(政経学部市原君)、(二)藤間〔生大〕問題にからむ人事委員会の問題(文学部五十嵐君)、(三)完全な選択課目制実施による教授陣の刷新(理工学部西尾君)、(四)教授の待遇改善と学校経営の全面的公開および大学院制度の改革、有給助手制度の採用(政経学部中島君)、(五)教授陣の刷新の問題(専商藤井君)の各項につき提案者から主旨を説明、再び休憩に入る。……

▽第二日(二十四日)……議長は専工の広瀬君、まず議事進行委員会が議場整理のため質問方法を説明後、ただちに前日の議題をとりあげて主旨を説明採決に入つた。「藤間問題にからむ人事委員会の件」については、「学の自由と独立のため人事委員会を廃止し藤間氏拒否の理由を公表させ、教授会の任免権を確立」の全条項を絶対多数で可決し、「理工学部における完全な選択課目制による教授陣の刷新」に対する全学的支持、「学外優秀教授の招へい」、「交換教授の実施」を問題なく可決……専工田中君がかわつて議長席につき、まず新学制による高工の昇格問題をとりあげ、全学的支援を決議したが、この時、専工の宮本君が「新制大学を明年度から実施せよ」との議題を提出、議会はこの問題を重大視し、その可能性をめぐつて詳細な質疑応答があつたが、まとまらず、結局商学部柳沢君の「かかる重大問題は小委員会を設けて慎重に検討すべきである」という調停案に結着。……

▽第三日(二十五日)……前日散会直前に行われた新制大学に関する小委員会の委員を、各部科校より二名ずつ招集して別室で協議することになり、第三日目の議題に入つた。まず学識陶冶の目的で「全学的討論会」を設けることにし、各文化団体を鳩合してアカデミズムを振興するため「文化会を設立すること」を可決して昼の休憩に入つた。一時再開とともに「原田鋼氏招へい問題」を上程可決し、ついで「勤労学徒同盟結成」、「学生課問題」、「学生寮の改造」等の議案が上程され、特に学生課問題は兎角問題を起す行動を追及し、真の学生課にふさわしくない〔職員〕の解任を決議した。……新制大学の問題は、俄然紛糾し、専門部、高師、高工と学部、学院の間に鋭い対立が生じて議場は一時混乱したが、新学制度審議会設置案は多数で否決され、加うるに議長の閉会を急ぐ態度と学部、学院が退場をもつて流会にしようとする行動に出たことは、混乱に油を注いで結局会期を一日延長し二十六日にもちこすことになつた。

▽第四日(二十六日)……「新学制に関しては議事委員会を設けて調査を行い、なお可及的速かに実施するよう全学生が協力する」という原案と「調査委員会の調査の結果良好、ならびに可能な全学生が協力する」という修正案を採決に付した結果、過半数で原案が通過した。……ここに全議案の審議を完了、すべての決議、第一回早稲田大学自治議会宣言を朗読、校歌合唱、万才を行つて歴史的議会の幕をとじた。

 第一回自治議会が二十六日に採択した人事委員会の廃止、学生課の改善、教授交換など十七項目から成る決議文は、同日蜷川譲中央執行委員長から島田孝一総長に提出された。学生自治会は決議文への回答期限を七月五日としたが、期日までには回答を得ず、期限より一週間遅れた七月十二日に漸くそれを手にした。自治会では早速これを検討・討議したが、「理事会の諮問機関として、理事、各学部長および若干の維持員から成る人事委員会に諮問して大学が任免を行うことは学園再建の最重要事である。優秀教員の採用という点からいつてもつとも適当なことと信ずる。人事委員会を廃止する意志はない」、「学生課は昨年十月機構の全面的改正を断行して、学生の風紀、保健、厚生および共済ならびに学生の会に関する事務を取扱うことになつている。したがつて特高的性格は全然ない」(同紙昭和二十二年八月二十一日号)などの文面から、学校側に誠意は認められないとの結論に達し、不満の意を表明してこれらの問題を留保することにした。第二回自治議会は十一月四日開催されたが、第一回の際に比べ学生の関心は低く、予定した四日、六日、七日のうち流会とならなかったのは、「第一回自治議会回答と授業料問題の経過報告」「水害救済並びに大山郁夫先生に関する件」などが報告、討論された二日目の六日だけであった。中央執行委員会は十二月初旬改めて自治議会を招集して藤間問題や代議員制度問題を論議し、前者に関しては、藤間生大の講師不採用の理由を明確にするとともに講師として正式に迎えること、人事委員会の解散・廃止を要求することを決議した。

 この間インフレ、物価昻騰という経済事情の逼迫は、私学の授業料値上げを必至とした。本学苑でも二十二年四月の値上げに続いて同年十月日本私学団体総連合会の協議に基づき再び学費の改正を行った結果、大学各部二千百円(理工学部は二千五百円)、高等学院文科二千円、同理科二千百円、専門部各科二千円(工科二千二百円)、高等師範部二千円と、半年前の四月より千円の増加、また専門学校(千四百円)、高等工学校(千二百円)、工手学校(五百円)はいずれも倍額となった。しかしインフレはますます激化し、翌二十三年四月より各学部二千八百円(理工学部は三千三百円)、高等学院文科二千八百円、同理科三千三百円とまたまた値上げされ、更に十月には各学部(理工学部を除く)・高等学院文科が五千七百円、理工学部・高等学院理科が六千九百円となった。学部(理工学部を除く)の場合、二十一年四月六百円であったのを考えると、僅か二年間で約十倍になったわけである。こうした状況は当然学生を沈黙させておかず、生活防衛のため学生は運動を一層深化・拡大させた。これを一層活性化させる要因となったのが国立大学の授業料値上げ問題と大学管理理事会案とであり、授業料値下げ運動と教育復興運動が結合し、生活権と自治権擁護のための運動が全国的規模で行われて、二十三年六月二十六日には百二十余校、二十万人を超えるストライキが実施された。本学苑でも学生は六月二十四日、二十八日自治議会を開き、教育の植民地化反対、運賃・学割値上げ反対、大学理事会法案反対を議決、私立大学独自の立場から六月二十九日には同盟休校を行った。こうした運動はやがて全学連結成の機運を醸成させ、七月三、四日には本学苑で全学連結成準備会が開催されて、九月には結実に至るのである。すなわち、全国二百六十六校、約二十二万名の学生を傘下に擁する全国学生の統一組織全日本学生自治会総連合は、九月十八日より三日間の結成大会を経て遂に誕生したのであった。このとき本学苑が二日目の会場校になったこと、本学学生高橋佐介が副委員長に選ばれたことなど、本学苑自治会関係者の果した役割はきわめて大きかった。

 ところで十月に入ると、本学苑では前述の問題にからみ両学院ならびに専門部の一部において試験ボイコット問題が生起した。また学生自治会は全学街頭デモを計画した。これに対し大学はデモを禁止し、更に十月十五日総長名で次のような告示を出し、学生運動の限界を示したのである。

告示

本大学は教育の一方途として学生の自治的訓練に資し併せて学生生活の充実向上に寄与する目的を以て先に学生自治会規程及び教職員学生協議会規程を制定実施したが、およそ学生の自治活動は本大学の教育方針と諸規則に反しない範囲内に於て営まれなければならない事は当然であつて、学生自治会規程の定める各種の委員会(自治議会も含む)といへども之に反する行動をしてはならない。同盟休校又は試験回避の如き学生の本分に悖り、大学の規則に反する決議はたとへ夫が教育復興運動を理由とするものであつても、その効力を認めることは出来ない。学生諸君はこの道理を認識し、去就に迷ふことのないやう要望すると共に敢てかかる違法な決議の強行を企て一般学生の就学を妨害するが如き所為のないやう戒心を望む。

昭和二十三年十月十五日 (『早稲田学報』昭和二十三年十一月発行第二巻第一〇号 二頁)

 この告示に対しては、撤回要求が起こり、また次のような抗議文が出されるなど、その対立は増幅した感があった。

抗議文

昭和二十三年十月十五日付の早稲田大学総長島田孝一の名をもつて発表された告示及び同日付の早稲田大学の名を以て発表された告は憲法によつて保障されている基本的人権を蹂躙し、且つ昭和二十年十月二十二日にマツカーサー司令部より発表された教育制度の管理に関する指令の趣旨に反するものであり、また形式的には学生自治会に関する規程を現行自治会規程の改正、及び解釈手続を無視して成立せしめたものであり、明かに違法である。したがつてこの告示及び告は学生自治運動に対する不当なる干渉であり、断じて承服しがたい。学生自治会は右の点に関し学校当局の猛反省をうながしここに厳重に抗議するものである。

一九四八年十一月二十五日

理事会御中 (『早稲田大学新聞』昭和二十三年十一月三十日号)

 このような学生の動向について、昭和二十三年度の「事業報告」は次のように述べている。

本会規程制定後第二年を迎え、委員を全面的に改選して鮮新の気をもつて本学年度にそなえたのであつたが、六月以来「教育復興闘争」を展開し、六月三十日自治議会に於ける決定に従い同盟休校を実行した前後から、理工学部に反対気運が生れ、秋になつてから同学部自治委員会の脱退と発展したが、翌一月に至つて解決した。一方十月には「告示闘争」を展開したが、これも全学的な問題に発展し得なかつた。

 学生運動も新段階を迎えたと言うべきであって、その後の動向は次巻で触れることとしよう。

三 教・職員組合結成への動き

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 学生自治会の結成・進展を眼の当りに見て、学苑の教・職員の間にも組合結成の気運が胎動を開始した。

 両組合に関する資料は殆ど残されておらず不明な部分が多いが、先ず教員組合について見ると、関連資料の初出は、文部大臣官房文書課長辻田力名で大学高等専門学校長、教員養成諸学校、その他直轄学校長宛に出された昭和二十一年四月十六日付の照会に対し、総長代理林癸未夫より五月十日付で提出された次の回答である。

教職員組合ノ組織状況ニ関スル調査ノ件

四月十六日付文五七号ヲ以テ御照会相成候標記調査ニ関スル件別紙ノ通及報告候也。

追而本大学ニ於テ組織セラレタルモノハ第一早稲田高等学院ノミニテ、其ノ他ハ目下結成準備中ニ付組織次第御報告可申候。

調査要項

一、組合ノ綱領 組合員ノ身分保障ト経済的社会的並ニ文化的地位ノ向上ヲ図リ、学術研究ノ進歩ト教育事業ノ責務完遂ヲ可能ナラシメ、以テ自主的ニ学院教育ノ充実ヲ期スルト共ニ広ク社会文化ノ発達ニ貢献スルコトヲ目的トス。

規約 別紙ノ通

役員 代表委員長 竹野長次

副代表委員長 浦上五三郎 川又昇

委員 逸見広 安藤常次郎 実藤恵秀 根津憲三 加藤諄

二、組合活動状況ノ概要 教育法ノ制定ノ運動、待遇問題等ニ関シ活動セリ。

三、組合ヨリ提出シタル要求事項等アラバ其ノ写

要求事項

一、本俸ノ増額 二、家族手当ノ増額 三、年功加俸制ノ制定 四、戦災教員ヘノ特別一時手当 五、教育法(教授ノ確立、教育ノ機会均等、教育費ノ国庫負担等)

四、参考トナルベキ書類 無シ

五、調査表 別紙ノ通

第二早稲田高等学院教員組合規約

第一章 総則

第一条 本組合ハ第二早稲田高等学院教員組合ト称ス。

第二条 本組合ハ組合員ノ身分保障ト経済的、社会的、並ニ文化的地位ノ向上ヲ図リ、学術研究ノ進歩ト教育事業ノ責務完遂ヲ可能ナラシメ、以テ自主的ニ学院教育ノ充実ヲ期スルト共ニ、広ク社会文化ノ発達ニ貢献スル事ヲ目的トス。

第三条 本組合ハ事務所ヲ東京都淀橋区戸塚町一丁目六四七番地第二早稲田高等学院内ニ設置ス。

第四条 本組合ハ法人トス。

第二章 事業

第五条 本組合ハ第二条ノ目的達成ノ為左ノ事業ヲ行フ。

一、組合員ノ身分保障ノ確立(但シ戦争犯罪ソノ他公平正当ナル事由アル場合ハコノ限リニ非ズ)

二、組合員ノ待遇、福利、厚生、ソノ他経済的地位ノ改善向上ニ必要ナル事項

三、組合員及ビソノ家族ノ共済ニ関スル事項

四、早稲田学園ノ民主化ソノ他社会的地位ノ改善向上ニ関スル事項

五、学術研究及ビ教育内容ノ拡充並民主主義化ソノ他文化的地位ノ向上ニ関スル事項

六、組合員ノ保健、親睦及ビ愛校心ノ昻揚並ニ生活ノ明朗化ニ関スル事項

七、ソノ他本組合ノ目的達成ノ為必要ナル事項

第三章 組合員

第六条 本組合ハ第二早稲田高等学院ノ教員ヲ以テ組織ス。但シ学院当局者タル教員ヲ除ク。

〔中略〕

第四章 会議

第十一条 本組合ニ次ノ機関ヲ置ク。

一、総会

二、代表委員会

第十二条 総会ハ本組合ノ最高決議機関ニシテ毎半期一回又ハ必要ニヨリ随時ニ代表委員長之ヲ招集ス。但シ組合員有志ノ請求アル場合ハ臨時ニ之ヲ招集スル事ヲ得。

〔中略〕

第十四条 代表委員会ハ本組合ノ執行機関ニシテ総会ノ決議ニ基キ業務ヲ執行ス。

第十五条 第十一条ノ各機関ハ定数ノ二分ノ一以上ノ出席ヲ以テ成立シ議決ハ過半数ヲ以テ決シ可否同数ナル時ハ議長之ヲ決ス。議長ハ代表委員長之ニ当ル。

第五章 役員

第十六条 本組合ニ次ノ役員ヲ置ク。

一、代表委員長 一名

二、副代表委員長 二名

三、代表委員 若干名

第十七条 代表委員長、副代表委員長ハ代表委員会ニ於テ之ヲ互選シ、代表委員ハ組合員中ヨリ総会ニ於テ之ヲ選出ス。

〔中略〕

第六章 事務組織

第二十一条 事業ノ円滑ナル遂行ヲ期スルタメ本組合ニ書記局ヲ置キソノ編成及ビ運営ハ別ニ之ヲ定ム。

第七章 会計

第二十二条 本組合ノ資金ハ組合員ノ醵出金ソノ他寄附金ヲ以テ之ニ充ツ。

第二十三条 組合員ハ入会金五円ノ外組合費毎月本俸ノ百分ノ一ヲ醵出スルモノトス。

第二十四条 前条ノ会費ハ何等ノ理由アルモ之ヲ返戻セズ。

第二十五条 本組合ノ決算期ハ三月末日及ビ九月末日トス。

第二十六条 本組合ノ予算並ニ決算報告ハ代表委員会之ヲ作成シ総会ノ承認ヲ経ルモノトス。

附則

一、本規約ハ昭和二十一年三月七日ヨリ実施ス。

二、本組合ハ早稲田大学教職員組合聯合会ノ結成ニ当リテハ率先之ニ参加スルモノトス。

調査表)

 回答書冒頭に「第一早稲田高等学院」とあるのは、「第二早稲田高等学院」の明らかな誤記である。それはともかくとして、この回答書によって、第一に二十一年五月段階で本学苑に教員組合が結成されたのは第二高等学院だけであること、第二に他のところでは結成準備中ということが知られるであろう。前者の詳細については前掲資料で尽きているが、右の第二早稲田高等学院教員組合役員連名の「各学部附属学校教職員」宛昭和二十一年三月七日付の報告があるので、これを収録しておく。

今般第二学院教員の総意に依りまして「第二早稲田高等学院教員組合」を正式に結成、法律上の手続を完了致しました。その主意とするところは「組合員ノ身分保障ト経済的、社会的並ニ文化的地位ノ向上ヲ図リ、学術研究ノ進歩ト教育事業ノ責務完遂ヲ可能ナラシメ、以テ自主的ニ学院教育ノ充実ヲ期スルト共ニ、広ク社会文化ノ発達ニ貢献スルコト」を目的と致すので御座います。各部科、各附属学校に於かれましても同趣旨の組合が結成されます事を望み、それが実現の暁には、早稲田大学教員組合聯合会に率先参加致し度いと存じます。

右御報告申し上げます。

昭和二十一年三月七日

 第二高等学院教員組合のその後の状況については資料が欠けているが、恐らく二十四年の旧制高等学院廃止まで存続したものと思われる。他方、第二高等学院に呼応して、各学部科その他に急速に教員組合が結成されてその連合会が誕生した痕跡は見られない。教員組合の結成が逡巡を見せているのに対し、学苑全部を包含するものとしては、職員組合の方がスタートを切るのが早かった。

 松坂伊智雄の「職員組合をふりかえって」(早大職組十五周年記念事業委員会編『職員組合結成一五周年記念誌十五年あれこれ』)には、「戦後まもない一九四七年十二月、二七〇名の職員が結集して『早稲田大学職員組合』が結成され……」(七頁)という指摘がある。しかし次の資料により、それは二十一年十二月の誤りであることは明らかであろう。

昭和二十一年十二月十日 早稲田大学職員組合委員長 印南高一

○○事務主任殿

去ル七日職員組合結成サレマシテ不肖小職委員長ノ重任ヲ拝シマシタガ、之ガ今後ノ運営ハ各位ノ絶大ナル御協力ト御支援ニ待ツノ外アリマセン。夙ニ御声援ノ程ヲオ願ヒ致シマス。就而、組合員名簿作製ノタメ別紙用紙ヲ差上ゲマシタカラ、所属職員方ニ御記入ヲ願ヒ御取纏メノ上至急御届ケ方御配慮願ヒマス。尚申込ト同時ニ十二月分会費金一円ヲ納メラレタク之亦宜敷御願ヒ申上ゲマス。

 この組合については、先の松坂が次のように語っている。

委員長をはじめ、役員幹部の多くは、今でいう部課長、事務長などの幹部職制で占められていました。その頃の国民生活は、戦争経済の中で進行していたインフレが、敗戦とともに野放しで暴走し、物価の高騰と、荒廃した農業生産と配給機構のマヒによる食糧の決定的な欠乏によって、極度に悲惨な状態となっていました。幹部職制の人々でさえ、組合の先頭に立って、「竹の子生活は、もはや限界だ。我々の要求が容れられなければ、ストライキも辞さない」と組合員に訴える程、生活破壊の実態は、すさまじいものでした。しかし、幹部職制の多くを構成員とするこの組合の体質は、インフレの若干の緩和とともに、改良主義、労資協調主義に傾斜していく弱さを持っていました。 (『十五年あれこれ』 七頁)

 活動の詳細は明らかではないが、左の昭和二十二年三月十九日付『組合ニュース』により動向の一斑は窺えよう。

秘書課長との懇談会――去る三月十四日午后二時本部会議室で福田〔英雄〕秘書課長との懇談会を開催した。当日は入試、卒業事務多忙の折とて、委員全員の出席をみなかつたことは残念であつた。懇談は定例昇給を間近に控えてのときであり、自然先頃発表された凸凹給与の訂正問題を中心として昇給、登格問題に関して一時間余に及ぶ福田課長の起案内容、調査研究の詳細なる実情の説明があつた。爾余種々懇談を重ねた結果一応組合として独自の立場から凸凹訂正に就いて総合的な申入れをすることとなつた。

事業計画として――資金の一部少額貸付については種々の事情から未だ具体化しては居ないが、近く草案を定めて、発表することになつてゐる。其他文化、智育、体育関係についても夫々研究に着手しつつあり組合員の教養、文化の向上を念願してゐる。

学園は挙げて今入試、卒業等の行事に各事務所とも繁忙を極めてゐる。この最大行事を無事終了する迄は職員たる各位の精励恪勤に待つの外はないのである。人手不足、物資不足等挙げて困難なる状態に在る時ではあるが、此時に当り各位の努力と工夫によつて、よく切り抜け得るのである。いささかの不平、不満のため瞬時たりとも、事務の渋滞を来すことがありとすれば、組合員としてよく之をなし得べからざるところである。組合員たるの自覚と誇りを持つて外来者に対しては親切心を持つて応接すると共に、相共に協同精神を発揚されて、明朗学園建設の一助たらんことを切望する次第であります。

 また、やや後になるが、二十三年十二月一日には『黎明』と題する職員組合ニュース(ガリ版刷、B4判二面)が出されている。活動資金の獲得も容易でなかったことが察せられるが、その事業の一つとして、次のような演劇公演を開いているのも興味深い。

先般御報告致しました「組合資金獲得」の為めの第一回催物は、委員会に於て左の如く決定、直ちに実行に移すことにいたしました。組合員各位におかれましても、何卒格別の御配慮の程予め御願い申上げます。

昭和二十二年二月一日 職員組合

組合員各位

一、来ル二月十一日(火、祭日)

二、大隈講堂にて

三、入場料一名十円(税共)

四、演劇公演――新国民座出演

一、警察官 四場 二、森の石松 五場

俳優・小川虎之助、藤村秀夫外三十五名一座

尚組合員各位には御招待券一枚差上げますが、平均二枚づつ御売さばきのほど御願い申上げます。

 なお、右の職員組合とは別箇のものであるが、その結成に先んじて二十一年二月には次のような「早稲田大学職員会規約(案)」ができ、委員は投票で二十名を選び、委員互選で委員長を吉田初雄に決めた記録が残っている。

早稲田大学職員会規約(案)

第一条 本会ハ早稲田大学職員会ト称ス。

第二条 本会ハ事務所ヲ東京都淀橋区戸塚町一ノ六四七早稲田大学内ニ置ク。

第三条 本会ハ早稲田大学職員及傭員ヲ以テ組織ス。

第四条 本会ハ早稲田大学職員(含傭員以下同)ノ勤労条件ノ維持改善、社会的経済的文化的地位ノ向上ト、職員相互ノ親睦・相互扶助ヲ図リ、以テ明朗学園建設ニ関スル諸要件ノ自主的解決ヲ目的トス。

第五条 本会ハ第四条ノ目的ヲ達成スルタメ左ノ事業ヲ行フ。

一、会員ノ生活ヲ擁護スル事項

二、会員ノ社会的経済的文化的地位ヲ向上セシムル事項

三、学園行政ニ関スル事項

四、会員ノ親睦相互扶助ニ関スル事項

五、其他会ノ目的達成ニ必要ナル事項

第六条 本会ニ備付スベキ帳簿左ノ如シ。

会員名簿 会計簿 記録簿

第七条 本会ニ左ノ役員ヲ置ク。

委員 二十名

委員ハ総会ニ於テ之ヲ選任ス。

連絡委員 若干名

本部各課長若ハ副課長、各学部科学院附属学校其他各事務所ノ主事若ハ副主事ヲ以テ之ニ充ツ。

顧問・相談役 若干名

第八条 委員中ヨリ委員長一名ヲ互選ス。

第九条 委員中ヨリ執行委員五名ヲ互選シ、会務ヲ執行セシム。

第十条 委員ノ任期ハ一ケ年トス。

第十一条 総会ハ年二回之ヲ開催ス。但委員会ノ決議又ハ会員三分ノ一以上ノ要求アルトキハ臨時総会ヲ開クコトヲ得。

第十二条 本会ノ経費ハ会費、寄附金其他ヲ以テ之ニ充ツ。

第十三条 会員ハ左ノ会費ヲ負担ス。

月俸百円以上 月額 一円

同同未満 同五十銭

〔中略〕

附則

本規約ハ昭和二十一年二月八日ヨリ之ヲ施行ス。

 また早大職員消費組合も結成されている。結成の時期は詳らかでないが、昭和二十年十二月十四日付の左の通知が出されているので、二十年十二月初め頃の設立と思われる。

お願ひ

先般発足した消費組合と組合員との連絡其他お世話を煩はし度いので各事務所に一名宛世話人をお願ひ致したいと存じます。

就てはお手数甚だ恐縮ながら貴事務所組合員の内から世話人を至急御選定被下様御依頼申上ます。

尚ほ御選定の上は人事課迄御報告下さい。

十二月十四日 早大職員消費組合

 職員消費組合は翌年三月十三日総会を開いたが、この総会後間もなく、左の如く有限責任早大購買利用組合に改組され、新たな活動を開始した。

旧臘発足しました職員消費組合は組合員資格の限定により規模小さく消極的ならざるを得ない条件のもとに運営されて来ましたが、今日の経済的諸般の状勢は、斯る消極的な活動力しかもたぬ組合の存立は到底ゆるされざるものとなりました。旁々主務官庁に於てもこれが、健全なる発達助成は末端配給機構への大きな示唆に富むものとの見透しに依り産業組合法に依る組合としてその活動に多大の期待をかくると共に積極的に協力される事となりました。本組合も組合本然の姿に甦りその使命達成に向つて充分なる熱意と責任を以て事業運営を期せんとするものであります。本組合の発展を計るに当り学園に職を奉ずる方方は等しく組合員となり協力一致急迫せるお互の生活の自力解決を図り明朗なる職場を築きあげたいと念願致します。

別冊産業組合法による組合定款を少数づつ各事務所にお廻し致しましたから御熟覧の上本月末日迄に加入せらるる様お願ひ致します。(既に加入せられてをる方は引続き新組合の組合員たる資格を有してをりますから別にその手続は必要でありません)

追而 定款は正式設立の上改めて印刷の上洩れなく差上げます。

五月二十日 (仮称)有限責任早大購買利用組合

教職員各位殿

 購買利用組合の事業目的は、八章五十八条より成る定款の第一章第一条に、

一 組合員ノ経済ニ必要ナル物ヲ買入レ之ニ加工シ若クハ加工セズシテ、又ハ之ヲ生産シテ組合員ニ売却スルコト

二 組合員ヲシテ経済ニ必要ナル設備ヲ利用セシムルコト

三 組合員ノ生活向上ヲ図ル為文化、教育、娯楽等ノ施設ヲ設クルコト

と定められ、組合長は吉田初雄、理事は印南高一他十二名、幹事は丹尾磯之助他一名で発足した。インフレと物不足で生活難が一層募る中、その果した役割はきわめて大きかったと推測される。